2016年10月14日午後2時〜午後3時 奈良市秋篠町にある秋篠寺を拝観しました。秋篠寺は2007年3月以来9年半ぶり。
幸いだったのは午後2時から約30分、私たちのほかに誰もいなかったこと。おかげで伎芸天を20分ほどながめていました。
 
ゆっくり鑑賞したせいか、伎芸天の柔和でふくよかなお顔にほんのりと色気があるような印象を受けたのと、薬師如来の両脇侍
として造顕された日光・月光菩薩の二体がほぼ等身大であることに気づき、あらためて親しみを持ちました。
家内は薬師如来を守護する十二神将の波夷羅大将の本地仏が文殊菩薩で、しかも辰の方角を守ると知って興味を持ちました。
 
 

秋の空
秋の空
秋の空
秋の空
 
子どものころ大きな河川敷で雲を追いかけたことがありました。たいていの雲は逃げ足がはやく置いてけぼりを食らう
のですが、秋のうろこ雲のようにほとんど動かず、形を変えては消え、消えてはあらわれ、早々と次のうろこ雲に
交代する類のものはつかみどころがなく、そしてまた、空一面に広がっていては追っかけようもありません。
 
それでも秋になると必ずあらわれ、ほかの季節にも時々出てくる似非ウロコグモより美しく、季節を感じさせてくれる
うろこ雲と澄みきった青い空にむかって何か叫びたい気持ちになったことがあります。
 
 
 
秋篠寺 東門
秋篠寺 東門
 
秋篠寺へは東門、南門のいずれの門からも入れます。駐車台数は東門の隣にある駐車場のほうが多いので、東門から入りました。
 
 
 
土塀 
土塀 
 
東門の突き当たりに土塀があります。
 
 
 
秋篠寺 南門
秋篠寺 南門
 
東門から歩を進めて突き当たりを左に曲がり、金堂跡の苔まで来ると正面に南門が見えます。
 
 
 
南門
南門
 
南門から見るとこんな感じ。
 
 
 
秋篠寺 金堂跡
秋篠寺 金堂跡
 
季節、天候によっても苔の色は微妙に異なり、秋や夏より春先の色のほうが美しいように思えます。
 
 
金堂跡
金堂跡
 
2016年夏は暑さが厳しく、9月に入ると週のうち3日か4日は雨。台風も多く、湿度の高いじめじめした日々が続きました。
心なしか苔の色もよくないように感じます。多量の雨、日照時間の少なさ、朝晩の気温が下がらなかったことなど、
ことしの紅葉は期待できないでしょう。
 
 
秋篠寺 本堂
秋篠寺 本堂
 
雲のかたちが刻々と変化。本堂には技芸天、薬師如来、日光・月光菩薩、十二神将がおわします。
 
 
開山堂
開山堂
大元堂
大元堂
 
 
 
ハクモクレン
ハクモクレン
 
何か見つけたようです。10月、葉の色も異なり、花も咲いておらず、一見モクレンに見えません。
 
 
ハクモクレン
ハクモクレン
 
葉っぱのあいだにツボミが。これを見つけたのです。もしかして11月に咲くのか。
 
 
ハクモクレン
ハクモクレン
 
 
 
 
 
 
タイサンボク
タイサンボク
 
ビワの木の葉を大きくしたような、天狗のウチワのようなタイサンボク。
 
 
 
対峙すること8分。あれこれ話しかけても微動だにしない。
 
 
動かぬこと岩のごとし、草木に化けたつもりか、カマキリよ。
 
ヘタに動くと大きな相手にやられると感じたのかしらん。
 
蟷螂(とうろう=カマキリ)と世阿弥の関係について若干講釈すれば、世阿弥の「申楽談儀」だったかに「たうろうの能」と
いうのが出てきます。世阿弥が子どものころカマキリ(蟷螂)の物まね芸を披露し、父の観阿弥がワキでつきあっています。
 
これは「禅寂のいっきゃくに供す」であり、禅の精神につながる笑い(いっきゃくはいち=一と、口に劇の左側の文字)を
提供するの意です。一笑に付すことも禅の精神なのでしょう。
 
 
 
 
この日の奈良市・京田辺市の日中の気温は20℃くらい。秋篠寺は林の囲まれているので20℃を下回っていたと
思います。陽がさしてもひんやりして、厚手の上着が要る陽気でした。
 
 
 
 
秋篠寺拝観の3日後、古い美術書を再読した。いや、再読ではない、再々再読くらいだと思う。
 
書名は「奈良古美術断章」(町田甲一著)。昭和48年初版発行、特装限定1000部とある。15頁目の一文を列挙する。
 
「奈良の仏像を拝観しながら、いつも一つの心配、危惧を感ずるのである。それは正しい美的観照が、しばしば文学的感傷に
よって甘やかされたり、また専門家の美術史家の中で、歴史的価値と美的価値が混同されたりぢていることである。(中略)
文学的感傷が純粋に美的な観照に先行して正しい評価を狂わせたり、美的評価を甘くしたりしている例が非常に多いのである。
 
特に女流随筆家の歯の浮いたような文章にその例を多くみる。その点、文学者、特に感傷的耽美的随筆家の功罪を大いに
批判しなければならないと思う。また、そういう人たちの筆にリードされっぱなしの甘い眼しかもたない美術史家の鑑賞眼も
大いに批判されなければならないだろう。」
 
町田甲一(1916−1993)は最後にこう結んでいる。
「すぐれた古都の仏像は、安易性、文学性を越えたところに、静かに、然もおごそかに、しかし控えめに立っているのである。
そして彼らは、われわれの俗流鑑賞眼の彼岸において、本当に美を求める心を静かに待っているのだといえよう。」
(初出 :国際情報社「日本の美」第二巻より 昭和42年)
 
 
 
女流随筆家が誰を指すのか判然としないけれど、おそらく白洲正子(1910−1998)や岡部伊都子(1923−2008)のことだろう。
 
それはさておき、自分自身が仏像をどのようにみていたかといえば、10代後半から20代前半のかけて仏像がだれかに似ていると
感じたり、それがだれであるか思い出せなくて、懸命に思い出そうとしたり、あるいは仏師の情熱とか歴史の背景を想像したり。
時には奈良の仏より生き仏などと不埒なことを考えたり。
 
40歳を過ぎたころから特に、やさしさ、厳しさ、気高さといったものを仏像にみるようになった。それは結局、20歳前後に感じたこと
の焼き直しで、篤い信仰心にみちた日常をおくっていた両親の姿を仏像にみて、ある種の救済をもとめていたのかもしれない。
はたして、魂の救済より価値の高いものがこの世にあるのだろうか。
 
 
 
奈良にうまいものなし。50年ほど奈良に通い食事した。一部の老舗旅館&料亭を除いてこれはと思うものに
めぐりあうことはなく、そういうことにエネルギーをつかわなくても古刹と仏像さえあれば集客力も衰えないとみている。
質実剛健は奈良の古建築と仏像の魅力であることに疑いの余地はない。が、料理に質実剛健をもとめる客は少ない。
 
奈良の料理がうまくないのは、ダシにお金をかけないから。そして競争相手がいないから。
良質の昆布、かつおぶしを用いないということより、良質かどうかを問わず、少量しか使わない。
その結果、うまい料理を提供できないのだ。どんな味かというと、味がない。
 
とろろ飯、ざるそばが名物であるかのような店に「うまいもの」のあるはずもなく、和定食1500円では良い出汁を
つかう余裕もない。団体客御用達の和風レストランで客が満足気な顔をしているのを見たことはない。
そういうわけで、昼食は手弁当、夕食は京都で日本料理ということになる。
 
40年前なら、奈良公園の近くに安くてうまい食事を出す店はあった。「下々味亭」(かがみてい)という名の飯屋。
若きは未来を語り、老いたるは過去を語る。そうして悠久の時は過ぎ去る。