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2014年2月18日午後1時30分入宮 仙洞御所の参観は日に2回 11時と1時半
仙洞御所は徳川家光が後水尾帝の隠居所として譲位前の寛永四年(1627)から7年を費やして造営 殿舎は二条城二の丸の建物を移す
「仙洞」=仙人の住まいの意が転じて上皇の隠居邸となった 後水尾帝のあと 霊元 中御門 桜町 後桜町 光格の五上皇が住む
度重なる火事で焼失し その都度再造営された 安政元年(1854)の大宮御所の出火で類焼したが 上皇が住んでおらず 再建されないまま
現在に至っている 外周の築地塀(現存)のみ当時修復された 殿舎は跡形もなく 華麗な庭にはわずかに醒花亭と又新亭の二つの茶室が残る
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大宮御所の御車寄あたりに申し訳程度の雪が。
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梅のツボミは固い。
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近衛家献上の茶室。この屋根は茅葺き。
今出川御門西の近衛邸にあった茶室を明治17年に移した。
それまでは修学院離宮の上の御茶屋から移した止々斎が
二度の大火で焼失。
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江戸末期にみられる大丸窓。
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又新亭と外腰掛は飛び石でつながっており、中間地点に茅葺きの中門がある。
中門をくぐって又新亭に至る。向かって左側が柿葺の屋根。右は茅葺き屋根。
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中門の南。
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アオサギが一羽、対岸を凝視するかのごとく佇んでいたが、
目を離したすきに飛翔していった。
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マガモのオス。
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北池・北西部の小さな入江は阿古瀬淵と呼ばれている。
このあたりには紀貫之邸があったというが定かではない。
石橋は石6枚で造られた六枚橋。
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小堀遠州は仙洞御所の作庭に着手したのは1627年(寛永四年)、
後水尾帝のころで、2年後(寛永六年)に
上皇となった後水尾帝はその翌年12月、仙洞御所に引っ越した。
庭園は徐々にすがたを変え、北池の汀もなだらかになる。
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中島は北池に浮かぶ。中島は鷺島ともいわれる
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寄り添うように寒椿が咲いていた。
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三条白川橋石材を短冊に切りだし、二枚をずらせて並べる。
夏、百日紅が開花。
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堀割は文字通り北池と南池とを隔て、同時に繋ぐ。
堀割には紅葉橋(土橋)が架けられている。
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手すりの竹は入れ替えがおこなわれる。この時期は青竹。
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出島の東に架かっているのが土佐橋。山内家が献上したと伝えられている。
土佐橋は参観順路に入っておらず、鷺の森入口手前から撮影。
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八つ橋は木造の反り橋だったが、明治28年に石橋となった。
上部は藤棚。藤の咲く5月上旬は参観予約が取りにくい。
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この時期はこういう光景を見るしかありません。
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八つ橋の下は南池
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南池の中島の進入口に置かれた燈籠。笠の形、火袋の意匠に
独自の工夫がある。
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南池は八つ橋の南に州浜が続く。右上に見えるのは八つ橋。
州浜の小石は約11万1千個。
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現在の醒花亭は1808年(文化五年)の再建による。
仙洞御所が何度か火災に見舞われるなか、最初の醒花亭創建時期は
定かでない。柿葺の屋根、紅殻色の壁、数寄屋造り。建坪は30坪弱。
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後水尾帝は1年に30回をこえる茶会を醒花亭で開いたという。
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柿本社の謂われは柿本人麻呂=火気の元、火止まろ。
ゲンかつぎかダジャレか。
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蘇鉄山の横を通ると又新亭の中門が見えてくる。
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